第14席
人間と人型ロボット

 人間とコミュニケーションを計れるロボットがあります。
筆者も、テレビなどでよく見る、コミュニケーションロボットを観て来ま した。 人間の問い掛けに対する生真面目な返答はもちろん、ウィットに富んだ 返答をプログラムされているとの事です。  かつてコンピューター業界に身を置いていた筆者としては、少し複雑 な気持ちになってしまいます。
コンピューターとは、極論すれば電卓の 大きくなったもので、インプットはキーボード、アウトプットはディスプレ イ、司るのはCPUと基本ソフトウェアという関係において、極めて 似通ったものである、という事です。  その装置がここまで進歩して来たのか、と感心する一方、コミュニケー ションと言っても、それが生真面目な反応であっても、少しウィットに 富んだ反応であっても、大きく動作で表現しても、スピーカーや駆動 装置を使い、演算したデータから導き出した「解」を表しているのである という事実を思うと、「対話」を楽しむ「熱」より、機械の冷たさを強く感じ てしまいます。  こう考えて来ると、テレビに向かって話し掛ける事、ロボットと対話する 事、スマホの中に友人を作成する事が、すべて同じ事に思えて来ます。  これらの「対話」と、人間との「対話」の違いとは何でしょうか。

 この問題について、「現象」と「本質」と謂う観点から考えてみましょう。 「言葉」や「動作」とは、「現象」であって、「本質」ではありません。 「本質」とは、「現象」の基であるところの感情や思想、主義、教養で あって、所謂「心」です。そして、人によっては、それは日々進歩している ものです。  コミュニケーションにはバーバル(言語)に依るものとノンバーバル (非言語、つまり動作)に依るものの二種類が有ります。この二つは、 「本質」たる「心」の発現である、「現象」です。  逆に言えば、「現象」の世界だけを「事実」とするならば、優れた演者 は、「本質」であるところの「心」とは全く違う事、「心にも無い」事を表現 して、観る者の心を打つ事が出来るという事を考えると、「現象」世界 では、一つの言い方をするのであらば、容易く「嘘をつく」事が可能と なります。  多くの人が、「この政治家はこういう人間だ。」、「この有名人はこう いう人間だ。」と認識する場合、その認識に至る為の材料は、雑誌記事 や報道番組であり、現実にその人物と逢い、対話をして、認識している 訳では無い様です。  つまり、「現象世界」では、「嘘をつく」事も、「虚像を創り出す」事も、 自在である、と謂えます。  しかし、ここに人間は、更なるコミュニケーション能力を持っています。

 「目は口ほどに物を言う。」「以心伝心」「肝胆相照らす。」という昔 ながらの言葉通り、「本質の葉たる言葉」「作られた動き」といった 「現象」に惑わされない、「本質」たる「心」を観る力です。  多くのスポーツを行う方はご経験があるかと存じますが、必死の気持 ち、心で肉体を限界以上に鍛えるとき、その眼に凄まじい力が籠もり ます。これを幾度となく経験すると、人の眼を観るだけで、そこに本気が 宿っているか解る様に成ります。これは、「心と身体が一体と成る事で、 身体を通して心を識る。」事に依るコミュニケーションで、最も簡単な 例えは「喜怒哀楽」です。人間は、幼少の頃は「喜怒哀楽」を「身体」で 表現し、成長すると、他人が喜んでいるか怒っているか、大抵は「眼」を 観ると解る様に成ります。  これに依って、最も大切なコミュニケーション能力である、 「相手の気持ちを想い遣る。」事が出来ます。  ロボットは「現象世界」の物ですから、「今日は友達を怒らせてしまっ て、辛いよ。」と謂う言葉を誤処理して、「それは本当に良かったです ね。」という解をスピーカーから表示する事も有るでしょう。  それでもそれを良しとして、人間がロボットに合わせ続ける様は、 同様に仮想世界で作られた友人に合わせ続ける事は、「ロボットに よる洗脳」を観ている様です。

 人間が「本質世界」を離れ、「現象世界」にのみ活きるとき、 「システム」と「データ」が人間を支配し、人間は人間でなくなります。  人間が、「身体」を通して識る事が出来るのは、「心」だけでは ありません。人間は、この宇宙、そして大きく謂えば、森羅万象を識る 事が出来得る可能性すら秘めていると謂えます。  この事につきましては、次回、申し述べさせて頂きたいと存じます。 (第十四席  続く)



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