第15席 新しい習慣
いろいろ宿題が残っておりますが、示唆に豊んだお話しを伺いましたので、皆さまと共有させて頂きます。
筆者の知人に、「パニック障害」と謂う病を患った方が在ります。以下、「」内は知人の言葉です。
「呼吸法について教えて頂けますか?」と、筆者を訪ねて来られ、知己を得る事が出来ました。
「大会社とまでは言いませんが、それなりの会社で、管理職を任されています。経営会議に参加し、自分の仕事は実直である様に務め、部下の育成は繊細に粘り強く対応し、新幹線や飛行機を活用して、全国出張に翔び廻って。仕事が終わったら現地の名産を楽しんで、気に入ったら、休日に家族とまた訪れて。所謂、充実した日々でした。」
発症は突然だったそうです。
「普段通り、取引先に伺うため電車に乗りました。駅を離れて1分くらいで、突然、抑えようのない強烈な恐怖と、心臓が口から飛び出るほどの動悸に襲われて、堪らず次の駅で飛び降りました。」
「心臓病を疑って検査しても何もない。初めての発作から日時を問わず恐怖、不安や強烈な動悸が襲ってくる。どうしようもないんです。発狂するかも、と思っていました。」
「後で識ったのですが、この病気には『予期不安』と『広場恐怖』と謂う症状が起きます。私の場合は、『あぁ、外出した時に発作が起きて、周囲の皆さんに迷惑を掛けたらどうしよう』と考えた途端、発作が起きるようになっていました。恐怖や不安を紛らわせるため、アルコールに頼るようになりました。もう毎日、酒浸りでした。」
「救ってくれたのは、まさか、と想いながらも受診した精神科、いまでいう心療内科でした。ここで、『パニック障害です。療りますから、あせらず治療していきましょう。』との、お医者様からのお言葉を頂きました。どれだけ安堵したことか。」
筆者と彼が出会ったのは、薬の効力である程度の落ち着きを取り戻した彼から、「腹式呼吸を主に教えてほしい。」との連絡を受けたことが契機です。
「お医者様からは『まずは薬で治療しましょう。無理せず、ゆっくり、焦らずに行きましょう。発作が怖いと思うのは、身体が発作を憶えているからです。身体はいつか発作を忘れます。原因があって身体が、筋肉が緊張して発作が起きます。逆に、身体が緊張しなければ、発作は柔らぐのです。』とのお話があって、目の前に光が見えた心持でした。いろいろ調べて、柔術に辿り着きました。」
筆者が彼と一緒に練習したのは、極く通常の腹式呼吸です。
初学者向けに行うもので、5秒吸って、お腹をへこませながら10秒から15秒かけて吐きます。腹式呼吸では、吸気、吐気ともおへその下3センチくらい、丹田を意識しての下腹の運動を伴います。
この、下腹部の運動に、括約筋の収縮を併用します。すなわち、空気を吸うとき、下腹を思い切り膨らませながら、括約筋を、締める、のではなく何かを吸い上げるように締め上げます。これであえて身体に緊張状態をつくりあげ、吐気の際に下腹部をへこませ、括約筋をゆるませる事で緊張状態から弛緩状態へ移行します。ここでは、括約筋の活用がとても大切です。
ちなみに、この方法は『文息』『順式』と謂われる呼吸法です。武術では『武息』『逆式』といわれる呼吸法を用いますが、いずれも括約筋が大切な働きをしています。『逆式』呼吸法は個人差で身体を害するおそれが在りますし、彼に必要な事は、敢えて身体に緊張状態をつくり、その後、意識的に弛緩状態に移行する訓練でしたので、『逆式』呼吸法はお教え致しませんでした。
なお、武術においても呼吸法と括約筋の活用はとても大切です。強力な力を発するためには基本として鍛えるべき部位とのお話でした。現代では、『お尻の筋肉』などと言うと怒り出しそうな人も在りそうですが、括約筋は大変に重要な、鍛えるべきポイントです。
さて、『順式』呼吸法によるリラックス法を一緒に練習させていただき、彼からは「よく眠れる様になりました。」と感謝されたものです。後日、薬効や鍛錬で、ある程度発作を克服した彼と話す機会がありました。『ある程度』と申し上げますのは、この病を完治できる人は発症者の30%と言われていること、そして彼自身が、何かの機に発作が起きそうなときがある、と自覚しているためです。
「発作が初めて起きたときは、本当に恐怖でした。『痛み』ではないので耐えようがない。対処のしようがない。何より、原因が解らなくて。いま、主治医と治療の道を歩み、呼吸法を取り入れて発作は収まって、静かに発症当時を振り返って観ると、あの頃は異常に忙しかった。毎日、24~25時まで働く日々で、休日出勤は常態でした。それが故あって1年以上、普通に続いていたんです。自分が頑張らないと仕事が回らない、睡眠もとれない、発症後は発作の恐怖は常にあって、アルコールを採り続けるので身体はボロボロでした。でも、薬を服用し、アルコールを断ち、呼吸法を実践して、落ち着きを取り戻しました。」
彼は教えてくれました。
「漸く仕事がひと段落したときに、実家に帰ったんです。仕事を離れて、子供のころ遊んだ、近所の海に行った。ゆっくり砂浜を歩く、途切れる事のない波の音を聴きながら季節はずれに砂浜に寝転んで、太陽を浴びながら青空の白い雲を眺め、夕陽に促されて実家に戻り、昔懐かしい姉の手料理を頂いて。姉から思いがけず『ほら、あんたが子供の頃に書いた作文と、図工で創った作品よ。』と、保管してくれていたものを見せられました。その夜は本当にゆっくり過ごしました。
私にとっては、この1日が最大の転機だったかな。自分自身が一度壊れてみると、壊れる前の自分自身はどう成り立って自分自身だったんだろうって、どういう過程を通って自分自身に成っていたのか、いま、何が足りないのかが解らなくなるんです。でも、この1日で憶い出した気がする。」
「家族って、今更ながらありがたいです。私が子供の頃に書いた下手な作文や、下手な作品を保管していてくれていた。それを見たとき、それらを創ろうと向き合っていた自分に成る。子供に戻ろうとは思わないし、戻れない。でも、『自分』に戻れた気がする。」
「いま、私は毎日、日記を付けています。パソコンを使わないで、自筆です。以外と文字を忘れている事に気付かされます。親しい人には、メールではなく手紙を書くように心掛けています。困惑されるかもしれないけど、ぼけ防止にもなりますし(笑)。そして、また自分自身を見失ってしまったときの道標に。」
当たり前だった生活を病気で失い、どうしたら病を治療出来るのか、失ってしまった自分自身を、どうしたら取り戻せるのか、取り戻したうえで、どうしたら更に自分自身を一歩、進められるのか。長い月日をかけても、追及し続ける彼の姿。これが彼の、ひとつの闘いと謂えるでしょう。
コロナ禍、と言われる昨今です。コロナが直接の原因なのか、間接的、二次的な問題が原因なのかは論じません。ただ、振り返って観るに、『新しい習慣』と謂う言葉が確かに在ります。これまでの生活から、新しい習慣を実装することで新しい生活へと変化しましょう、と謂う事でしょう。
この、確実に現在在る状況を観るとき、筆者は『新しい習慣』をひとつ実装する事で、『今までの習慣』即ち『自分を自分たらしめていた習慣』をひとつ失ってしまう
のではないか、という事を危惧しております。筆者の個人的な経験ではありますが、それはまるで、パソコンで便利に文章入力を行い続ける事で、いつのまにか漢字を忘れ、辞書を引きお目当ての言葉の近くに新しい言葉を見つける喜びを忘れ、「下手ながらも、出来るだけ美しく、且つ、人に伝わりやすい文字を記そう」という意志を指先に集中させてペンを走らせていた事を忘れてしまった事に似ています。
これが筆者の杞憂であれば良いのですが、無意識に行う域に達するほど身についた習慣こそ、あらためて認識する事が難しく感じられます。そんな事に思いを巡らして
いるとき、一度、それまで当たり前に、無意識に出来た事が制約されてしまった中でも、病いと闘い、それでも自分を取り戻して、さらに自らを高めていこうとしている
彼の姿を、やはり思わざるを得ません。
(第15席 了)