第17席 「愛」と謂う「エネルギー」
「”勝つぞ!”という気持ちのあるチームなのかな?」
ひと目、対戦相手のチームを観て、そう感じたそうです。これは、筆者が、ある球技チームのコーチをしている大学生に聞いたお話しです。
「まず、前回我がチームをさんざんに苦しめた主力プレーヤーのA君、B君の二人が出場していない。出場しているプレーヤーも、お互いに目を合わせようともしない。」
大勝利に終わったゲームの後、彼は相手チームの仲の良いプレーヤーに理由を聞いたそうです。
「主力のA君、B君を前面に押し出す戦略ではなく、”全体プレー”で、どの選手にも平等にチャンスを与えて欲しい、と、一部のプレーヤーが監督に申し出たのが始まりかな。」
「監督は、”全体プレー”主体の戦略を選択したんです。主力のA君、B君は他チームからも恐れられる存在ですから、彼らを中心に据えた戦略を組み立てるのが勝利への常道だと思うんですけどね。」
確かに、勝利だけが絶対価値ではないアマチュアチームが在るならば、全メンバーが一度は試合に出場する、という方針も、そのチームの価値観でしょう。
ただ、このチームの場合は、様子が違ったそうです。
「監督に進言したプレーヤーたちは、保護者の皆さんにも”全体プレー主体”を主張していた。『勝つ事がまず第一目的で、勝利に向かってチームの内でも切磋琢磨して、各プレーヤー努力する事が大事だよ。そのうえで努力しているプレーヤーが一度は試合に出場する、という事なら理解するよ。』と諭す保護者には、『実はね、A君、B君は普段の素行も悪くて、チームでもみんな、内心は苦々しく思っているんです。才能を鼻にかけて図に乗っているんです。』と嘘をついた。二人の素行が悪いなんて、もちろん、『でっちあげ』です。ただ、一人が悪口を告げ口するとその仲間が『その通りなんです。』と口裏を合わせた偽りの証言をする。A君、B君をよく知っている他のプレーヤーも、上級生である彼らに分断され、黙らされた。正しい事を言う子たちは、少数弱者で、まるで”悪者の味方”扱いされて、黙らざるを得なかった。保護者の方々も最初は信じていなかったけど、「こんなに証言者がいるなら…!」と、信じてしまった。」
「A君、B君も、はじめは『監督の決めた方針だから』と従っていたけど、『チーム方針だから、今回はベンチで控えていてほしい』と言われてベンチで控えていると、何か周りの態度がおかしい。」
「結局、皆、気付くのが遅かったんです。”全体プレー重視”と言い出したプレーヤーたちが、『チームのため』に進言していたのではなく、A君、B君への嫉妬から、『自分だけのため』に進言していたという事に。」
「その後は彼らの勝手なプレーばかり目立つ様になって、挙句に彼ら同士で”主役争い”が始まった。他のプレーヤーは変に口出しして、次は自分が陥れられるのが嫌で、冷めた目で観ている。勝手なプレーをしている人間はそれに気付かず、相も変わらず自分だけが目立とうとする。もう、チーム内は空中分解状態です。”チームのため”と、監督や保護者にまで言っていた人間が、結局はチームを壊した。」
「得点を奪うよりもチームメイトの得るべき利益を奪い取る、ゴールを守るよりも自分の欲望を守り、満足させる。もう、これは『戦うチーム』ではあり得ないですよ。」
「それで、A君とB君は今回も試合に出れないの?」と尋ねたところ、こう、答えが返って来たそうです。「ああ、A君とB君はチームを辞めました。『チームは辞めるけど競技はやめない。残念なのは、僕らを悪く言った彼らは、口を動かすよりも身体を動かして、僕ら以上に練習して僕らに克とうと思わなかったのかなってことかな。』と言っていたそうです。確かに、僕らが観てもA君とB君の練習量はチームの内でもずば抜けていましたからね。」
この話を伺ったとき、筆者と同時期に武道を志したC君のことを憶い出しました。40数年も前のお話です。人づてに聞いていたのですが、C君は大変に素質のある方で、素直で、また研究熱心だったそうです。大変に練習熱心だったそうですが、ある日の稽古で師範に褒められた事を境に道場内でC君の悪評がたちはじめ、結局、C君はその道場に居づらくなって、去って行ったそうです。その後、C君が武道を続けているのかどうか、筆者の耳には届いて来ておりません。
人間が持っている、凄まじいパワーの一つに、「愛」と謂う実エネルギーがあります。このエネルギーが他者へ向けられ、他人を大切に想う事、自分を犠牲にしてでも他者を守ろうとする事、これを「他者愛」と謂い、「人間の正性」(プラス)と呼びます。反対に、このエネルギーが「自分を守る事」、「自分の欲求を満たす事」のみに向けられたとき、人間はなりふり構わずに嘘をつき、他者を陥れるために平然と罠を準備します。これを、「自己愛」と謂い、「人間の負性」(マイナス)と謂います。
通常の人間の心であれば、事に臨んで「正性」と「負性」を行き来して、「それでもやはり、完璧ではなくとも、『正性』に踏みとどまろう。『卑怯』を行って、怨みを残して、他人を陥れる様なことはしないようにしよう。共に活かし合う方向を探そう。」と思い至るものです。これは教育の一つの結果であり、叡智であり、大局観であり、人間の尊厳のひとつです。
対して、他人を陥れる事のみに執心して、おぞましい罠を用意し、嘘と虚言を垂れ流し、他者を踏みつけようが犠牲にしようが、また利用しようが、自分の欲求を満たすことだけがすべて、と「自己愛」に捕らわれてしまった状態、そして行動してしまった、この様な状態に陥った人間を多くの場合、「畜生」と呼ぶ事が多い様です。
A君とB君を陥れたプレーヤーたちは、二人が去った後にこう言ったそうです。「あの二人が何を言ったって、”負け犬の遠吠え”だよ。みんなは僕たちを信じて、僕たちについて来ればいいから!」。何も言わずに去って行ったA君とB君が、”言えなかった”のではなく、”言っている暇があるなら次のチームで活躍するための努力をする”というプレーヤーである事実を知っている多くのチームメイトは、どういう気持ちでこの言葉を聞いていたのでしょう。
「嫌われる」という言葉と、「恨まれる」という言葉があります。社会生活を過ごしていると、「嫌われる」ような事を言ったり、しなければならない場面があります。ただ、「嫌い」の反義語は「好き」です。他人の評価は一瞬で変わるものですから、「嫌い」は「好き」に変化する可能性があります。ただ、「恨み」が発生した場合です。「恨み」の反義語は「恩」と謂われます。「恩返し」という言葉がありますが、「やって頂いた善事には善で報いる」という意味とは裏腹に、「やられた事はやり返す」という意味が含まれているそうです。「畜生」に陥った人間の行動は、多くの場合、「恨み」を発生させる行動の様です。
A君とB君とC君、それぞれがチームや道場を去った決断は、筆者は正解だと考えます。誰よりも努力しても、口先だけで陥れられる状況ならば、努力を認めてもらえる環境、努力と結果だけを認めてもらえる環境に進む事こそ、彼らには大切なのではないでしょうか。その進む先が、我が国の内にあることを祈ります。
(第17席 了)