第九席 遙かな高み  

 数年前の1月、筆者は神奈川県を訪れておりました。 早朝、海を望めるその街を散歩したくなり、早速、出掛けました。 1月もまだ2日、しかも早朝ですから、人影も殆ど無く、吐息も白く凍る 寒さのなか、歩いておりました。  ふと、公園に差し掛かったところ、一人の男性がトレーニングをしてい る姿を認めました。年配の方で、ただ一人、黙々とトレーニングを続けて おられる姿を拝見しながら、「何のトレーニングかな。」と、考えておりま した。暫くして、また、その公園を通りかかると、男性は、同じ様に、黙々 とトレーニングを続けておられました。お顔を拝見した所、プロレスの大 ファンであった筆者には、その方がどなただか、すぐに解りました。 トレーニングのお邪魔をしないよう、タイミングを見計らい、御本人で あることを確かめ、握手をして頂きました。丁寧な敬語で接して頂き、 その上、雑談にまで応じて頂き、現役時代にこの方が繰り広げられる 関節技や、相手の技を切り返す技術の美しさ、現在では、「キャッチ」と 謂われていると認識しておりますが、その、戦略的な動きに、もともと 感銘を受けていた筆者は、随分と感動したものです。  更に、筆者が大変な感銘を受けたのは、この方が、随分前に引退 されているのに、今なお、黙々とトレーニングをされておられるという 事実にです。

 ある方は、プロを引退されても、誰に見られる事なく、ひたむきに トレーニングを続けられ、ある方は、その技術を芸術の域にまで、ひた むきに、磨かれています。そこには、筆者などが語る事も許されない、 尊敬すべき崇高な志操を、感じざるを得ません。また、スポーツ、武道 のみならず、「今よりも良い物を造ろう」「今よりも良い音を奏でよう」と、 何事によらず、技量を磨かれている姿、そこには、やはり、崇高な理念 があるのではないでしょうか。  社会では、他人がその努力を認められると、その人とその成果を 揶揄し、不当に貶め、所謂、「足を引張り」たがる人があります。他人を 引きずり落とそうという意図からの行動でしょうが、     「人を引きずり落とす」事と、     「自分が登って行く」  事は、全く違う事なのではないでしょうか。 自分が登るには、やはり、自分をひたすらに磨くしかないのではないで しょうか。また、お金を出せば、必要な能力を手に入れる事が出来ると 考える方も有る様ですが、最良の教師、最良の教材は手に入れられて も、やはり、修得するのは自分であって、そこには、不断の努力が必要 なのではないでしょうか。必要な「能力」は、お店で販売している訳では ない様です。そして、「与えられる」事と、「自ら取りに行く」事は、やはり 異なる事ではないでしょうか。  「努力は必ず報われる」のか、と聞かれる事もあります。「報われる」 とは何を指すのか、人それぞれでしょうから、敢えて筆者はこう応えま す。「百回やった者は、百回やっただけの力を付け、三百回やった者 は、三百回やっただけの力を付ける。」

吉丸先生に鍛錬法をお教え頂く際、「この動作でどの筋肉を鍛える、 その理由はこうである。」という事をご教授頂けるのですが、「続けて いれば解る事もあるから。」とのお言葉も頂戴致しました。吉丸先生に お教え頂いた鍛錬法のなかには、「とてもでは無いが、自分には出来な い。」と考え込んでしまう程の運動もあって、実際に行ってみますと、 激痛のあまり、数回行うのに1年間以上掛かった場合も有ります。筆者 の才覚に問題があるのでしょうか。ただ、数回出来ると不思議なもの で、100回を超えるのには、やはり1年間を費やす事で出来る様になり ました。しかし、先輩方には、毎日500回行う、1,000回行う、という 方も有って、先は未だ未だ長い様です。ただ、回数に伴い、見えてくる 物、感じる物も変わると確信しております。  なお、一般の方は、そこまで専門的な鍛錬を行わなくとも構いません。 楽しみながら、無理なく、ご自分に合った運動をされる事が大切です。  さて、鍛錬を行っていてよく陥る事が有ります。「100回出来る自分」 を「出来ている」と考えますと、「100回出来る事」が目標となってしまい ます。  もし、少しの期間鍛錬を休むと、その場合、「98回出来る体力」にまで 低下し、「100回出来る」までの2回が目標になってしまいます。

しかし、鍛錬において筆者が考える最も大切な事柄の一つは、 「限界まで行った後の、更なる一回」を行う事で自らの限界を伸ばす事 であって、更には、この繰り返しによって、300回出来る方の境地、 500回出来る方の境地に登る事が大切なのであって、「100回出来 る」自分を目標とする事では有りません。それは「成功体験を追う」だけ の事では無いでしょうか。やはり、「自分は完璧に出来ていると思うと、 その人はそこで終わってしまう。」というお言葉の通りなのではないでし ょうか。  筆者は、「自分は出来ている」などとは到底考えられませんし、鍛錬も きついものは避けたくなります。それでも、少なくとも、行った分は進歩 している、と考えております。  さて、たまに、武道談義などを行っていますと、「拳と武器」という話が 話題に登る事があります。  「武器を使えば簡単に身を護れる。それでは、技を磨き、鍛錬を行う 意味とはどこにあるのか。」 と謂ったものです。逆に、いったい我が国のどこで気楽に武器を携行 出来るのか、聞きたいところですが、話の本質に関係ないため、それは ひとまず横に置きましょう。

 鍛え上げられた拳足も、「武器」には違い有りません。格闘家、武術家 は、常に「武器」を携行している様なものです。街では、木刀などの 「武器」も販売されています。いずれも「武器」には違い無い訳です。 そして「武器」は、使用者によって「凶器」に変わります。  煉瓦をも砕く空手家や、一撃で人を倒すボクサーは、その「武器」で ある「拳」を振るい、他人をやたらと傷付けているでしょうか。「武器」で ある刀を身に帯びた士は、やたらと他人に向かい刀を抜いたのでしょう か。そんな事は無い筈です。  身近に「武器」を持ちながら、その「武器」の危険さを識り、使用する事 は無かったのではないでしょうか。「武器を使用しない」とは、「『矛』を 『止』める」事であって、即ち、聞くところの『武』という文字の成り立ちで あって、「『矛』を『止』める『者』」が、即ち「武者」です。であるならば、 「武者」が扱う「武器」、それが「戦闘にも用いられる様な武器」ならば、 それはどの様なものなのでしょうか。筆者は、それは間違いなく、 「凶器」では無い、と確信しております。そして、「『矛』を『止』める『者』」 になれる事が出来るならば、それも「鍛錬・修練を続ける」事の一側面と 考えます。  多くの人が、「強くなりたい」と、武道を学び初めます。それは正しい 動機です。そして、その人は「強い」と周囲からも認められる様になった 時、「そうだ、俺は強いんだ。」と、周囲を威圧して喜ぶ様な事はしない 筈です。むしろ、より謙虚になられるのではないでしょうか。その様は、 「強くなりたい」という動機を、すでに超越されている様に見受けられま す。そして黙々と、更なる境地を目指されているのでは無いでしょうか。 筆者は、その様な方々を、尊敬して已みません。  そして、筆者に、「自ら努力して登って行き、なお驕らない。」事の大切 さをお教え下さった吉丸先生も大変な人格者で、我々弟子を叱咤され る事はあられても、吉丸先生が他の先生を悪く評価されるお言葉は、 ただの一度も聞いた事はありません。  高みに有って驕らず、なお自らを鍛え、磨かれておられる素晴らしい 方々と邂逅し、未だ目指すべき在り方の裾野に居る自らを省み、想いを 新たにさせられたものです。
      
                                                                                           相顕舎の庵 第九席 了



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