吉丸慶雪先生の想い出

吉丸慶雪師範へ筆者が師事しておりました時代の、想い出四方山話となります。
師範から承ったお話、技術なども、徒然に綴っていきたいと存じます。

吉丸師範は師範のご著書からご理解頂けるかと存じますが、常に進歩されておられました。
お話の内容や技術などは、筆者が師事していた時代のお教えに基づく部分が大きい事をご了承願います。


~吉丸慶雪師範を偲ぶ~


 2014年 9月20日、吉丸慶雪先生がご逝去されました。

 筆者が吉丸先生と初めてお逢いしたのは、既述のとおり、昭和58年 8月に、東京都大崎の品川体育館で催されました、先生の1日講習会でした。
 
そこで筆者は、「徹身(とおしみ)」を体験させて頂き、この技術が実在する事、そして、武道の途轍もない深奥さを思い識ったものです。

 高校生であった筆者は、畏敬の念で先生のご著書にサインをお願いしたのですが、「それならば、少し話して行こうか。」とお誘い頂き、そして、入門を決意致しました。尊敬すべき偉大な武道家にお誘い頂いた若き筆者の感激 は、言葉には出来ないものでした。

 先生の許に入門させて頂き、程なくした頃に、吉丸先生から、「君、学生でお小遣いも少ないだろう。だから月謝はおまけしてあげるしお小遣いが無いときには、月謝のことは気にしなくても良いんだよ。だけど、君はいつの日か、人に武道を伝えられる、指導者に成るんだよ。」というお言葉を頂きました。このお言葉が、会社員である筆者が、ホームページや講習会を通して、皆様に武道全般の素晴らしさを伝え続けさせて頂いている所以です。

 後年、先生とご友人が会話をされている際、「あの頃はお金が無かっ たからね。」と笑っていらっしゃるのを拝見し、吉丸先生は金銭に拘る事なく、武の道を大切にされている事を改めて識り、弟子である事に誇りを感じたものです。

 当時、筆者が品川体育館への行き帰りに眺めていた、今や日本経済の一角を担う大崎ニューシティは着工したばかりの鉄骨姿で未だその姿を現してはおらず、吉丸先生が、「将来の指導者養成の場。」と位置づけられた品川体育館で稽古に励む一門は、吉丸先生、副師範、筆者たちで、いつも四、五人であり、若き筆者は、将来に大きな夢を抱いたものです。

 現在、大崎ニューシティは働く人々や多くの人々が活躍する場と成り、副師範はご自身の会を率いられ、筆者は 会社員で有りながら武道の発展に僅かながらでも資する事が出来る様に微力を尽くして居ります。 吉丸慶雪先生は数冊の著作を著され、多くの弟子を育成するという 偉業を為され、そしてご逝去されました。

 初めて先生とお逢いして30数年が経つ現在でも、先生とご一緒させて頂き道着を身に付け、道場に立ち、初めて稽古を付けて頂いた時の先生の一語は、筆者の心を励まし続けて下さいます。「さあ、やろう。」

 ここでは、吉丸先生との想い出を語らせて頂きたいと存じます。


~「月刊秘伝」様 追悼記事に想う~


 皆様ご存じの通り、「月刊秘伝」(株式会社BABジャパン様発行)誌 2015年 1月号 86頁から、「吉丸慶雪師範 ”合気”探究の生涯」と題されました追悼記事が掲載されております。

 86頁に、吉丸先生が技を掛けておられる写真が掲載されておりますが、この受手が筆者です。この写真は吉丸慶雪先生の御著書、「合気、その論理と実際」(ベースボール・マガジン社様発行)の157頁に掲載されたもので、
合気錬体会様のホームページにも掲載して頂いており、筆者としても懐かしく、また喜ばしい想いで拝見しております。

 この写真を撮影して頂いた際、吉丸先生から、「多くの先生方は、きちんとした(表紙を飾れるような: 筆者補)写真を撮影されるものだが、私は今まで撮影した事がない。折角、プロカメラマンの方もお見えである事だし、この機会に撮影しよう。」とのご提案があり、筆者が受手を勤めさせて頂いて、撮影は行われました。その写真が、 同御著書28頁の写真となります。

 これらの写真を目にする度、撮影の際に、「本気で投げるからね。」と投げて頂き、多くの事を学ばさせて頂いた喜びを、身体の痛みとともに想い出すものです。
                                                        (2015年 4月 5日)

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